・・・その6


6、就職そして結婚

3月31日、私は、公務員試験に合格したため、
名古屋にある研修所に入所することとなった。
研修所は完全寮制のため、今まで兄弟の中で誰も経験したこともなく、
且つ、親から離れての生活を強いられることとなり
18年間住み慣れた 浜松を後にすることとなった。

名古屋は大都市のことだけあってビルが多く、地下街や路面電車など
全てに驚くばかりであった。
4月1日の入校式後、2日ほどして各種正規の授業に入ったが、
高校3年の2学期で、既に勉強することに意欲を失っている
私にとっては 苦痛の毎日であった。
また、授業を聞いているだけならよいが、試験の結果が悪ければ
追試というものがあり、それさえなければ、
毎月決まった日に給料が入ってくることには魅力を感じていた。

しかし、その給料も手取り2万円弱程度で、
パチンコとボーリングに凝っていた私にとっては僅かな金額であり、
帰省もままならなかった。
肝心な勉強については、やはりやる気のなさがたたってしまい、
一年間を通して追試こそ一回ですんだが、その成績は散々たるものだった。

そして、1971年の3月に卒業とはなったものの、
学生時代には味わったことのない屈辱の1年であり、
3ヶ月間の専門の研修を経た6月末に静岡に赴任することになった。
やっとの思いで「自宅へ帰れる」と思ったのもつかの間、
新米には諸先輩の出勤してくる前には掃除やお茶だしなどをしなければならず
そのためには、6時半頃のバスか電車に乗って浜松駅に向かわなければならなかった。
しかし、当時の時刻表にはそんな早い時間帯のものはなく、
初日の「行き」だけを父親に浜松駅まで送ってもらって通っただけで、
その日から仕方なく独身寮へ住むこととなった。
同じ勤務地へは11人が配属となり、そのうち、私と同じ課には4人が配属され、
私は内部事務担当となった。
初めの頃は、上司の言うとおりに仕事をしていればよかったが、
しばらくすると、電話や来客への対応にだされ、
「基がないだけに、相手の言うことは一回で上司に正確に伝えなければ」
という使命感で、対応には恐怖を感じていたときがあった。

そして1年が過ぎ、外部事務担当となって外にでて調査する係となったが、
上司に2〜3回調査に連れていってもらっただけで、
すぐに一人で調査に出かけなければならなかった。

やがて、1974年の2月になり、将来設計や現在の生活設計などは少しも考えず、
22歳という若さと勢いに任せて結婚した。

しかし、その当時の給料は、交通費をのぞいて手取りで2万5千円ほどの時代で、
私の遊興費にも金がかかったために、
妻の実家には、さぞ迷惑かけたことと思う。
そして、76年に長男が、78年には長女が生まれたが、
子供の育て方についても、私は「四女、二男の六番目」で
妻は「三男、一女の三番目」と、育った環境や価値観などに違いがあり、
私がほとんど手を出さなかったために、妻は四苦八苦して子供を育てたと思う。
ただ、私としては、私の父親が私にしてくれたように、
たまにはどこかに連れて行ってやることだけはした。

この間に、私は藤枝へ転勤し、その後4年おきに清水、富士へと転勤になったが、
80年には姉(三女)が38歳で、82年には義母が、そして、84年には父が他界し、
2年追いに次々と哀しい出来事が起こった。

特に父の死については、「家に帰りたい」と掠れるような声で父が言った言葉と、
「早く治してからな」と私がいかにもよそよそしく行った言葉が、
いまだに耳にこびりついて忘れることが出来ない。

また、入院して3ヶ月経たない頃に、「余命幾ばくもない」
と聞かされてみんなでお見舞いに行ったが、
父は既に飢餓のようにやせ細って寝ており、
「どうせ治らない病気なら検査することもないのに」と
医療のあり方について憤りを感じた。

富士へと転勤になったのは1984年の7月で 、
その前の12年間は、明けても暮れても調査ばかりだったので、
多少嫌気がさしていた。だが、久々の内部事務担当と、
上司や友人にも恵まれたため、意欲を燃やして仕事を行うことが出来た。
それからの私は、今までと違って仕事に対して前向きに考えるようになり、
4年して富士を転勤となったが、1年で役が付いて富士へ戻ってくることとなった。

私は、この栄転を諸手をあげて喜んだが、
私に与えられて仕事は部門全体に影響を及ぼす仕事だったため、
今まで以上の努力と体力が必要とされた。
そして、それまでどんな不摂生なことをしても、体の機能に障害を及ぼしたり、
風邪なども引いたりしなかったため、健康に関しては自信を持って仕事をしていた。
だが、このがんばりが、後々、
私の病気の原因に拍車をかけることになろうとは夢にも思わなかった。



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