・・・その7


7、退院そして今

言葉を失った私は、偶然にも歯ぎしりで気をひくことを覚えたが、
それは、妻を病室で呼び起こす手段に他ならなかった。

また、病院から与えられた「ナースコール」も私の症状にあった物ではなく、
病院もそれ以上のことはしてくれなかったため、
見るに見かねた義長兄が、私の症状にあわせた器械を作ってくれた。
そのお陰で、妻も心おきなく家の用事などをすることができ、
私もそれなりに用を足すことができた。

そして月日が流れ、妻も看護婦の指導を受けて
私を在宅介護できるまでになったので、
入院して約4ヶ月ぶりの1月14日に退院することにした。

当日は絶好の退院日和で、花束こそなかったものの、
私は担当医と当番看護婦に玄関までの見送りを受け、
そして、久しぶりに見る外の景色に、新鮮さを感じながらの帰宅となった。

暫くして、週3回の訪問看護と1回の保健衛生と1回の往診、
そして1回の入浴サービスを受けることで、
在宅介護に必要な事項を整えることができると思った。
しかし、それだけでは、昼夜に渡る家事と介護を妻一人に負担させてしまうため、
週2回寝泊まりしながら介護してくれる人を自立センターで斡旋してもらい、
今後の生活を切り抜いていこうとした。

しかし、準備を整えたのもつかの間、熱こそ38度弱とあまりなかったものの、
呼吸器を付けて初めての出来事であり、
しかも、息が荒くなったことでパニックになってしまっために、
救急車で国立病院に運ばれることになった。

風邪をひいてしまったことにより、退院して1ヶ月で
もとの国立病院に戻ってしまった私だが、点滴をしてもらったらすぐに治ったため、
その日に自宅へ帰してくれると思っていた。

ところが、担当医から「1週間はいてもらわないと」と言われ、
滞在を余儀なくされてしまった。私一人ではどうしようもないため、
仕方なく言われるままに従ったが、私の脳裏には一抹の不安がよぎった。
それは、1週間の間に、私の気に病んでいる看護婦に当たることであった。
案の定、私の不安は的中し、全くの会話のないままに、
私のして欲しいこととは反対の、私が一番いやがる姿勢で、
それも、7時間も放りっぱなしにされた。
そのため、「こんなところにいたら、治る病気も治らない」と思ったため、
4日間で退院させてもらい、「二度と風邪はひくまい」と心に誓った。

こうして自宅へ戻った私だが、暖房設備のある病院とは違い、
暖房器具はあるも隙間風が吹き抜ける自宅のため、
電気あんかとホッカイロは手放せない物になっていた。
冬はいつしか過ぎ去り、過ごしやすい春がやってきたが、
私の生活は相変わらずで、テレビとラジオの時間のほかは天井を見つめることしかなく、
また、妻との会話も通常の介護以外には殆ど会話することもない毎日を送っていた。

なお、昨年の9月末から、妻による夜の介護が始まったが、
2時間おきにしなければならないことと、家事一切も全て自分自身で行っているために、
以前と比べて心身共に疲れていると思われた。
しかし、私としては、いつ終わるかわからない私の介護のことを考えれば、
昼間殆ど休まない体裁ばかりを考えた生活は、
いつしか夜の介護に影響を及ぼすことになり、
お陰で、歯ぎしりをしていた私の歯は、4ヶ月で削れて音がでなくなってしまった。

そして、退院して初めての夏を迎えたが、私は元来から冷房や扇風機が嫌いで、
窓を開けたり庭に水をまいたりしてなるべく使わないようにしていたが、
さすがに室温が25度近くなると、呼吸が苦しくなって冷房を使わざるを得なくなる。
しかし、長時間使用することで風邪や頭痛が心配になるほか、
妻の自律神経障害による体のことを考えねばならず、
一日も早く夏が通り過ぎることを祈った。

やがて、過ごしやすい秋に別れを告げ寒い冬を迎えたが、二度目の冬のため、
準備などもそんなに慌てることもなくすんだが、
ただ、風邪だけはこじらすことがないようにつねに心掛けた。
そして、二度目の夏を迎える頃、訪問看護婦から鍼灸師を紹介してもらい、
週1回、私の体の機能の維持向上のほか、妻の体の悪い部分なども癒してもらっているため、
以前にも増して、ますます充実したメンバーで介護してもらえることとなった。

なお、当初のメンバーと若干の入れ替えはあるものの、
私がこのような状態でいる限り絶対に必要な方々で、永久に感謝し続けなければならない。

また、今まで及び、今も尚、私の家庭に手をさしのべてくれる多くの方々に感謝申し上げます。

注:文中の鍼灸師は、「六番町 ぬちぐすい」篠崎ではありません。私は、3代目です。



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