・・・その4


4、入院 

「危ない数値に入った。すぐ入院しなさい。」と言う担当医の言葉に、
「ついに来るべき時が来てしまったか」と私は腹をくくった。

仕方なく、私と妻は診察室を後にし、入院の手続きをするために、
足取りも重く1階玄関の受付に向かった。
そこには義弟が待っていて、
「入院することになったから、悪いけど荷物を持ってきて」と妻に言われ、
急いで荷物を取りに行った。

しばらくして、私たちは3病棟の相部屋に案内され、そこで義弟が来るのを待った。
この日は、入院をしただけで終わったが、
久しぶりにベッドに寝ることになった私は、案の定、背中が痛くなって、
夜中じゅう妻を起こしていた。

翌日の午前になり、看護婦が2人ほど病室にやってきて、
私の周りを片づけて肩に注射をしてで出ていくと、しばらく経ってから、
担当医が外科医と5〜6人の看護婦を引きつれてやって来た。
やがて手術が始まったが、初めのうちは何ともなかったのに、
途中から急に痛くなって、あまりの痛さに、
小学校以来流したことのない涙を思わず流してしまった。

どのくらいたっただろうか、手術が終わり、
看護婦が呼吸器の設置場所をいろいろ苦労していたようだが、
最終的に、私は個室に移されることとなった。

この手術をしたことにより、背中の痛みがなくなると同時に言葉も失うことになったが、
健常者の時の何気ない動作やしゃべりが、いかに素晴らしいものであったか
と言うことを痛感させられた。 しかし、言葉は失ったものの、
なにか代わりになるものはないかと考えたところ、
顎を動かしたら歯の軋む音がした為、
「これならなんとか気をひくことが出来るだろう」と思った。

なお、昨日から、妻を付き添いという形で病院に寝泊まりするようなったが、
この日からは、呼吸器自体がだす熱風と騒音の他、
消灯の長い時間が夜9時になっていることもあって、
寝付かれない長い夜を迎えることになった。

私のような患者は、手術により喉にカニューレと言うものを入れており、
ある程度の時間が来ると、喉に痰がたまったり空気が減ることにより、
吸引やカフエアーをしなければならなくなる。
私を自宅で介護するためには、妻はこのことを覚えなければならず、
初めのうちは妻にやってもらうのが怖かったため、
「看護婦や医者のやるのをよく見ておけ」と言って、
しばらく練習をさせてからやらせることにした。

そして、妻が病院に寝泊まりするようになってある程度経ってから、
自宅を長男だけに任せていたために、妻は家事をかねて家の様子を見に行った。
さすがに、家を一見構えるとなにかと用事があるもので、時間を過ぎて帰ってきた。

こんな私たちの生活を、妻の友人達が気にしてくれて、
食事や花などを持ってきてくれたり、私を交代で見てくれたりした。

やがて、妻が私の介護になれることに伴い、看護婦も一周して慣れたのか、
病室に来るのを省略する者、一定の処置しかしない者、
やりっ放しにしていく者などが現れ、「患者に耳を傾けることもできない看護婦は、
意志を持たないロボットと一緒だ」と思った。

私はこの人達のことを、five black nurseと呼んだが、このうち何人かは、
患者や付き添いの間でも評判の看護婦であり、
この人達の担当の日は、泣き寝入りする以外他はなかった。
このため、私の妻に対する依存度は大きくなり、「歯ぎしり」で妻を呼ぶ為に、
私の歯は支障をきたし、夜は睡眠不足の原因にもなった。

また、1ヶ月ほども経てば、医者や看護婦の他に、患者や付き添いの人たちとの
交流もでてくるもので、寝ていることしか何もできない私にとっては、
いつしかラジオが友に、妻は付き添いの人たちとの会話に花を咲かせるようになった。

また、手術後の私は、ただ、現実を見つめる以外他ならなかったため、
私の心は卑屈になっていた。そして、「知り合いにこんな無様な格好は見せられない」と思い、
その思いが妻に通じたのか、職場の人が来たり友人が見舞いにきても、
病室には通さずに応対してくれた。
反面、「会わせたところで本人は口もきけないし、
五十音を使って会話をしなければならないほど切迫したことでもない。」
と妻自身で判断したのだろう。

その五十音を使って会話をすることはとても大変で、
言葉を言いたい方の目の合図を見ながら、ずっと五十音を追い、
それを何回も繰り返さないと言葉にはならないので、根気のいる作業であった。

その為、私たちの間では、通常の介護以外で五十音で会話することはほとんどなかった。
ところで、手術を受けた直後の私の脳裏には、
「私はなぜ生きているんだろう。生きていても、この状態じゃ何もできないし、
ましてや、治るはずのない病気で、人に手を煩わせて、寝たきりの状態で死を待ってるなんて。」
との思いがよぎり、私はたまらなくなって、声にならない声を上げて思わず泣いてしまった。

そして、「癌、交通事故、脳・臓器疾患など」で、現役でなくなった同僚を思いだし
「私の方が、長生きしたなぁ」とか、
1984年9月に死んだ父親を思いだして「畳の上で、死なせてやりたかった」など、
昔のいろいろなことが走馬燈のように走り去った。



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