・・・その3


3.休暇そして休職

私の病気は、既にこの時点で左手がまったく動かず、
右手もペンを持ってやっと動かす程度の力しかなく、
また、足にも歩行に困難をきたす程度まで進行していた。

しかし、異動後は直ちに清水の職場に挨拶に出かけ、
翌日から再度、国立病院へ検査入院するために、
休暇を取ることを決めていた。

それは、私の病気の症状が、とても勤務に耐えられる状態ではなかったことと、
病気の原因の究明と最後の身の拠り所は病院しかないと考えたからである。
翌日になり国立病院へ入院したが、前担当医が転勤となっており、
新担当医は一番新しいデーターが欲しいらしく、前回と同じ様な検査を行った。

しかし、結果は病気の進行具合を見たにとどまり、
目新しいものは何一つ見つからなかった。ただ、違っていたことと言えば、
私の言うことを聞いてくれたことだ。
私はどの医者に対しても「頭の中で鈍い音がした。」
と口頭で言ったにもかかわらずまったく検査しておらず、
特に某病院では、MRIと言う器械があっても、
首の部分しか撮影してなかったことを聞かされた。

国立病院にはMRIと言う器械がないため、早速外注先の某外科医院へ出かけ、
MRIを撮ってもらうこととした。 翌日、担当医から連絡があり、
ナースステイションで検査結果の説明を受けた。
病名は分からないが、MRIの撮影から「運動神経が頭部からダメになっている。
頭蓋骨を開いても脳には沢山の神経があるため手術は困難であり、
且つ、今のところはこれと言って治療法はない。」と言うことであった。

私はこの説明を聞いて、体から一瞬、血の気の引くのが分かったが、
「ここではみっともない格好は見せられない」と我に返り平静さを装った。
これ以上ここにいても内容が変わるわけではなく、
また、病院側もこれ以上検査することもないので、
この日のうちに退院となったが、2週間に一回来院して検査を受けるよう義務づけられた。

西洋医学で治療不可能の宣告を受けた私だったが、
「どこかに治療法があるはずだ」と確信し、鍼治療に全てをかけることとした。
だが、私が本格的に鍼治療に通うようになったのは、それから半年ほど経った
8月の下旬で、「東洋医学ならなんとか治してくれるだろう」と安易に考えていたからであった。

だが、幸運なことにこの時の職場の上司が、厚生関係に明るく、
鍼治療が医療補助を受けられることを教えてくれたため毎日通うこととした。

病院を退院後、仕事に関しては何もできないため、すぐに休職扱いとしてもらった。
それからというものは、朝8時に起きて10時のバスに乗り、
11時から鍼灸院で治療と運動で1時間半ほど過ごし、
帰宅後は夕食を挟んで3時間程度の運動をするのが日課となっていた。

しかし、この頃になると病気の症状は随所に現れ、
通いはじめの頃にできたいろいろな事柄が日を追って出来なくなり、
今までに味わったことがない怒りと腹立たしさを感じた。
また、2ヶ月ほどたった10月初め頃、鍼灸院に行こうとしてバス停に向かったのだが、
自宅を出てすぐのところで転んでしまった、

それ以来、どこへ行くにも何をするにも妻に介助してもらうようになった。
そんな中、医科百科らしきものから私の症状を専門とする医師を抽出したところ、
三重県に嫁いだ姉の家の近くに某大学病院があると言うことが分かった。
電車を乗り継ぎ迷惑を承知で出かけたところ、
姉夫婦は快く一日中私たちに付き合ってくれたが、
結果は私の思いとは裏腹に脆くも崩れ去った。

また、10月末には、運転免許の書き換えの時期が来たため、
「3年後には治っているだろう」と警察へ更新に出かけたが、
「現在の運動能力で判断する。」とのことで、
バスを乗り継ぎ試験場にまで出かけたりした。
結果は、車を運転させられてなんとか合格する事が出来たが、
病気の進行は止まることを知らず、
介助による歩行も他人に迷惑をかけるまでになって来たので、
バスを使うのは年末までで終わりにした。

なお、酒は運動を始めた9月から、煙草は両手が使えなくなった11月から、
運動の妨げになると思い止めた。

1995年の年が明けたが、私の生活はなんの変わりばえもせず、
鍼治療と運動の毎日を送っていた。
若干変わったことと言えば、今までの鍼灸院での運動も、
鍼灸院のあるビルの階段を使用して足腰を鍛えていたのだが、
足がもつれるようになった為それもやらなくなってしまった。

このように進行していく私の病気を気遣い、鍼医者も親身になって
いろいろな治療を施してくれたり、運動をするにも親切な助言を与えてくれた。

そして、暑い夏を迎えた頃には、病気は首まで進行し、
徐々にではあるが頭を上げるのに違和感を覚えると同時に、
舌にも変化が現れ、言葉を喋るのも困難になっていった。

しかし、このような状態であっても、いずれはこの場所を立ち去らなければならず、
仕事先の宿舎に住んでいた私は、自宅の取得が少し心配になっていた。

と言うのは、国立病院で診てもらうためには静岡市内に住む必要があったが、
当時の私には先立つものがなく、
また、物件がまったく動かず多いに困惑していたからである。

ところが、障害者の1級を認定されたことにより保険金がおり、
そして、タイミングを計るかのように近くで手頃な物件が新聞に載り、
あまり手をわずらわせることなく入手することが出来た。

そして、車椅子でも入れるように改造し、11月1日に同僚や妻の友人達の応援を受け、
20余年住み慣れた宿舎を後にした。
転居と同時に、今まで借りていて使うことが出来なくなった運動具を返したりし、
残った鉄棒だけで「いつかは治る」ことを信じて運動を続けた。
しかし、既に私の首は力が入らなくなって頭を上げることが出来ず、
それと平行して舌が回らなくなって言葉が喋りにくく、
且つ、ものを噛むのも不自由になって
食事も制限されるようになっていた。

また、転居するまでは、風呂も介助してもらってやっと入れる程度であったが、
人間にとって必要不可欠の睡眠は、喉の軌道の萎縮で酸素の確保が難しく、
それと相関関係にある寝返りは、
体位の確保がうまく出来ずに妻も私も睡眠不足気味であった。
特に、転居してからと言うものは、ベッドに寝ること自体が苦痛になり、
ひどいときは15分おきに起こしていたときもあった。

たまらず、こうした様子を妻が知人にうち明けたところ、
「難病指定」されれば、訪問看護を受けられることを知り、
早速担当医に手続きをとってもらった結果、翌年から訪問看護を受けられることになった。

1996年1月中旬になり、初めて我が家に訪問看護婦がやってきた。
その人は妻の知人の娘であったが、私とはそんなに年も離れておらず、
「南沙織」似のエキゾチックな顔をした常識のある人であった。

そして、一週間に1回ではあるが、いつも妻に体を拭いてもらっているだけだったのが、
この日から入浴することができるようになった。
こうして、転居以来問題となっていた入浴は、
訪問看護を受けることによって解消されたが、
寝返りと軌道の確保による睡眠不足については、
看護婦のマットなどを変えたりしていろいろと考えてくれたが、
なかなか良い方法は見つからなかった。

結局は、私がテーブルに頭を付けてイスに腰掛けることで解決したが、
その解決は一時的なもので、これによって私が一日のうちに腰掛ける時間
は20時間くらいになり、鍼医者に指摘されるまでは、
足の浮腫が来ていることなど知る由もなかった。
足の浮腫は、寝ているときに足を高くしていれば自然に治っていったが、
軌道の萎縮は声をだすことにし、また、足は脚力を落とさないように運動をする
ことで毎日を送っていた。

ところが、夏の初め頃、いつものように国立病院へ検査に出かけたところ、
担当医から「今から血液検査をする。」と言われた。
この時はまだ危険ラインまで達していなかったために家に帰してくれたが、
「そろそろ危険ラインに近づいているのでこれからは毎回検査をする。」
と言われ、さらに追い打ちをかけるように「検査結果が悪ければ、
即、入院で(気管)切開手術をする。」とまで言われた。

私はこの言葉に一瞬寒気を覚えたが、
「今までの鍼や運動などはなんだったんだ。絶対治してやる。」
と自分に言い聞かせた。

そして、鍼と運動の毎日が続いたが、 その日から2ヶ月ほどして、
とうとう私に審判が下される日がやってきてしまった。

*注・文中の鍼灸治療院は、当治療室とは関係ありません。



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