・・・その2


2.単身赴任

一連の仕事の目安がついたのは8月末になってからで、
意を決して臨んだ検査入院は名ばかりで、外来のときに入った検査の他は
大した検査もなく、暇な一週間を過ごした。
それも、「原因不明で、10万人に一人の珍しい病気。」と言われただけで、
病名や治療法など私の期待するところは一切でなかった。
やむなく、一時的に病気のことは諦めて仕事に専念することにしたが、
このことが引き金となって、妻の友人の勧めからプロティンを飲み始めた。

下田での単身赴任生活は、本来なら、風光明媚と新鮮な食べ物などで
快適な生活を送っていたかもしれないが、現実は厳しいもので、
左手の握力は日に日にその衰えをまし、何をするにしても不自由であった。
特に、朝の着替えや整髪などの一連の支度は、時間がない上にすべて右手で行わなければならず、
ましてや、通勤や金帰日来で3時間も乗る車は、マニュアル車であったために、
他人の目には危なく映ったことであろう。
こうした生活が続いた11月に、義兄から「私の知人で、韓国に鍼の名医がいる。」
と言う朗報を聞き、「あー、これでやっとこの病気が治る」と思い、
藁をもつかむ思いで出かけた。

外国に行くのも飛行機に乗るのも初めての私は、すべてを義兄に任せるしかなかった。
医者の家は韓国の中でもある程度の町中にあり、昔、日本にいたらしく、
日本語がある程度は解る初老の老人であった。
私は、鍼治療というものがどういうものかよく解っておらず、義兄の話っぷりからして、
すぐに効果の現れるのではないかと真剣に思っていた。

ところが、私の思いとは裏腹に、すぐには効果が現れず、「今度いつくる。」と言われたので、
年末にくることを約束してその時までの分の薬をもたされた。

なお、私の左手はこの時点で既に動かなくなっており、
何をするにしてもほとんど右手でしなければならず、
荷物も足取りも重く帰国した。あっという間に1ヶ月が過ぎ、韓国に行かなければならない年末となった。

前回は義兄の後をついていけば良かったのだが、今回は一人ですべてを行わなければならず、
不安をいっぱい抱えたまま出かけた。案の定、
空港から向こうの駅(トンテグ)までは何とか着いたが、
そこから医者宅の近くにあるホテルまでは遠くタクシーに乗ったところ、
名刺の裏に書かれたホテルの地図を解ってもらえず、
30分くらい粘ったが結局追い出されてしまった。
ここまできて今更引き返すわけにはいかず、
前回来た道程を思い出しながら祈るような気持ちで歩き始めた。
1時間くらい歩いただろうか、やっと見覚えのある景色が見え、
朝10時に家を出て9時間後のことであったため、旅の疲れからこの日はすぐに就寝し
翌日の治療に備えた。
次の日、時間がないのでそうそうと朝食を済ませ、
早速医者の元へ出かけたが、この日は私の他に3〜4人先客がいて、
6畳くらいの部屋で一緒に治療を受けた。
治療の合間に韓国人の患者と世間並みの会話をし、
医者から又、「今度いつくる」と聞かれたため、年が明けると仕事で忙しくなるので返事に困っていると、
「続けて治療をしなければダメだ。もし、来られないのなら、生活費さえだしてくれれば、
私が日本に行ってやっても良い。」とまで言ってくれた。

しかし、医者への迷惑と金銭的にも自信がなかったため、「これたら、年明けにくる。」
といういい加減な返事を残し、前回同様、薬をもらって医者宅を後にした。
なお、時期や金銭面や体の疲労度や病気の治癒能力などからして、
この時「もう、これない」と判断し、傷心な思いで帰国した。

年末ではあったが、下田の気候はとても暖かく、
私の住んできた須崎と言うところは近くに水仙で有名な爪木崎と言うところがあり、
これ以上病気を進行させてはならないと始めた運動コースとしては、
時間的にも絶好な場所であった。

そして、1994年の年が明けたが、私は韓国には行かなかった。
というのにはひとつの理由があったからだ。それは妻が友達から、
「国立病院に名医がいる」と言うことを聞いてきたため、
私も「原点に返り、一から病気について確かめよう」と考えたからである。

早速国立病院に出かけ、名医と言われる医者に診察してもらったところ、
「この病院にはあなたと同じ様な患者が沢山いる。
詳しく調べたいから検査入院しなさい。」と言われた。
この時の医者の言葉から、「これでやっとこの病気が解る」と思ったが、
今は仕事で忙しいため、後日改めて検査入院することとした。

なお、病気は更に進行し、この時点では既に、右手にまで症状がでていた。
仕事の忙しい時期ではあるが、この合間にこの病気についてなにかできることはないか
と思案していたところ、職員で知っている人で埼玉に「ある程度の病気ならなおしてしまう人がいる」
と言うことを聞き、期待して出かけた。

その人は忙しい人らしく、有名人や誰かの紹介がないと診ない人で、
その見料も1回12万円と言う高額であった。
しかし、その人の治療は「気」で行うもので、私の目には良くは映らなかったため、2回でやめてしまった。

仕事の忙しい時期が過ぎ、私が国立病院に検査入院したのは4月上旬のことであった。
だが、その検査内容は、某総合病院とほとんど同じで、「運動ニューロン病」
と言う病名が付いことだけが違っていたと言っても過言ではない。
その病名について説明を聞いたところ、「体中の運動神経が疎外されてしまう病気だが、
原因がどこから来ているのかは分からない」とのことであった。

原因が分からなければ原則として治療方法もないわけではあるが、
医者から「可能性に賭けてみよう」と言われ、外来で2度点滴をうちその結果を待った。
しかし、残念なことにその検査には何の反応も示さず、
原因の解明に憤りを感じたばかりか、すすみ行く病気に怒りと恐怖心を覚えた。

ところが、私の悲痛な叫びが天に届いたのか、
「病気の免疫効果を高めるために鍼治療がある」と新聞に載っており、
妻が調べたところによると、静岡の某所で開業していることがわかった。
何とか治癒の突破口が見つからないかなぁ」と祈るような気持ちで出かけた。

受付で現在の症状などを記入し、診療台で医者が来るのを待った。
やがて医者が現れたが日本人ではなく、流ちょうな日本語で症状について聞かれたので、
この病気の今まで通ってきた過程を説明した。
医者は私の病気を知ってか知らないでか多くは語らなかったが、
「様子を見るためしばらく通院するように」と言った。

しかし、現在は単身赴任中で通えても週1回であり、
何もしないよりと韓国の時と比べて設備が整っていると思われたため通うことにした。

しばらくして、7月の異動の時期がやってきた。本来ならば2年間の任期であるが、
今の状態では仕事も勤まるわけがなく、病気の治療と言うことで自宅から通える清水への転勤となった。
下田へは初めての仕事と勇んでいってはみたが、
仕事と、病気の治療と、単身生活で、最後は性も根も疲れ果てての帰静となってしまった。



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