・・・その1


私が診せていただいているALS患者さんのMさん、自伝を書いていらっしゃいます。

今回、MさんのOKがでまして、こちらのHPに掲載させていただくことになりました。

さて、その前に、少し、Mさんの現在の症状と、
意思伝達に関してお知らせしたいと思います。

ALSは、運動神経が侵され、少しずつ筋肉が萎縮していく病気ですが、
Mさんは、92年2月に初めて体の変調をきたして以来、
現在は、顔の表情を作る筋力、下肢のふるわす程度の筋力があり、
自宅にてベッドの上での生活を送っていらっしゃいます。

Mさんの意思伝達方法としては、ワープロと、目の動きによります。
自伝は、僅かな顔の筋肉を使って、ワープロを打って書かれました。
と申しましても、なかなかイメージできない方も多くいらっしゃると思いますので、
簡単に説明を加えます。ワープロを打つと言っても、キーボードを打つわけではありません。
画面に50音が表示され、その文字の上を、カーソルが自動的に動いています。
自分が打ちたい文字のところにカーソルが言ったときに、
スイッチにふれるとその文字が打てます。
変換の場合は、画面上に表れる「変換」のところにカーソルがきたときに、
スイッチにふれると変換されます。削除や、改行なども同様です。

Mさんの場合は、下唇の下にスイッチを置いて、ワープロを打っています。
ワープロ以外の意思伝達方法の目の動きに関して説明しますと、
yes/noを表す場合、目を縦に動かすか、横に動かします。
yesならば、縦。noならば、横。yes/no以外に関しては、
介助者が、口頭で50音を順番に言い、患者さんは言いたい言葉の時に、瞼を閉じます。
例えば、「好き」でしたら、介助者が、「あかさたなは・・・」と言っているときに、
「さ」のところで、患者さんは瞼を閉じます。
次に、介助者は「さしすせそ」と言い、患者さんは「す」のところで瞼を閉じます。
「き」は、「あかさたな・・・」の「か」で、瞼を閉じ、「かきくけこ」の「き」で瞼を閉じます。

それでは、自伝をどうぞ。



1.発病

1996年9月19日入院。翌20日死亡、と言っても過言ではない。
この日、私は気管切開手術を受け、人工呼吸器という器械を取り付けた。
疾患名は最終的にはALS(筋萎縮側索硬化症)と言うことになり、
頭も手も足も自力で動かすことができず、ましてや、呼吸や声を出すこともできず、
器械に生命を支配される日々が始まった。

私がこうなった原因には、二つのことが考えられる。
ひとつはたばこの吸いすぎで、多い日は3箱にまで至り、
もう一つは、27歳から強くなろうとして始めた酒が、
特別な日をのぞいては毎日飲むようになったことだ。

空腹時の喫煙は食事を不摂生にし、又、酒は夕食を拒み、
まともな食事は昼1回のみの生活が続いた。
こうした生活が長年続き、栄養不足と酒による疲れ、又、近年に於いては、
もともと仕事量が多いのに、週40時間労働になってもなにも減らない仕事量による疲れも
手伝って、このような結果になってしまったと思われる。

私の予想では、「こんな生活をしていたら、胃腸や肝臓などに障害が起きて、
いつかは酒も煙草もやめられる時期が来るだろう」と安易に考えていた。
ところが、私の予想はおおいに外れ、体の一部どころか体中の運動神経のずべてが
阻害されてしまう、それも、現代医学では治療法のない病気になろうとは思いもよらなかった。

しかも、それは突然やってきた。

この時私は国家公務員で、静岡から富士へ電車通勤をしていた。
残業が終わり、この日も5〜6名といつものように富士駅のホームで酒など買い込み、
車内にて飲食した後、私はいつの間にか寝入ってしまった。
車内アナウンス「静岡駅」に到着したことを知らされ、
「ハッ」と我に返って車内を歩きホームに降りた瞬間である。
頭のなかから「ブチッブチッ」と鈍い音がした後、急に目眩渡欧と間がして
傍にあったベンチにうずくまってしまった。
どのくらいしただろうか、ふと我に返ると、体中に汗をかいていたが、
先ほどの目眩と嘔吐感はすっかり消え失せていた。
私はこの悪夢を一刻も早く忘れ去りたくて早足で家に帰り、
そしてなにもなかったかのように眠りについた。
まさかこの時の症状が、後々、対それた結果を生もうとは夢にも思わなかった。

無宗教者の私がこのようなことを言うのはおかしいかもしれないが、
この時(1992年2月)私は数えで42歳の厄年であった。
この後、私はこの日のことなどすっかり忘れ、いつもの生活を送っていたが、
私の体は二つの変調を訴えていた。

ひとつは朝食の後すぐにお腹を下してしまうことと、
もう一つは、アルコールを飲むときに、
以前にはなかった嘔吐感が走ったことであった。
また、疲れがピークに達したのか、朝起きて出署するのが辛く、
それまで通勤していた電車に間に合うことができなくなり、
次の電車か車での通勤が多くなった。
すべては、「疲れがとれれば何とかなるだろう」としか考えてなかったと言うより、
それ以上のことは考えたくなかったのかもしれない。
しかし、相変わらずお腹の下痢的症状は続いたが、
嘔吐感はアルコールを飲むたびに薄れていった。

そして富士に勤務して3年が経過した同年7月、
人事異動により、静岡に配置換えになった。
地元のため、朝、家を出る時間外間までより30分遅くなったことにより、
体調も幾分よくなってきたと思われた。

気分を新たに仕事をしていたが、10月頃になって、
呼吸をするには何ら支障はなかったが、肺には若干の異変を感じた。
しかし、体の外見上や機能には別にこれと言った支障は見られなかった為、
いつもと変わらない生活をしていた。
ところが、この年の年末に、ついに体の機能に支障をきたす日がやってきてしまった。

それは、私の娯楽のひとつであるパチンコをしていた時のことで、
休憩をしようとコーヒーを買ってきて、左手で口元まで持っていこうとしたとき、
手が震えてスムーズに口元まで運ぶことができなかったのである。
その感覚は、まるで重い荷物を持った直後の手に似ており、
飲む前には左手で何もしていないことに結論が達したが、その進行が緩やかだったために、
時には忘れ、時には腕立て伏せなどの運動をしたりして日々を送っていた。

そして、私がやっとの思いで腰を上げたのは、
仕事の繁忙期を過ぎた翌年(1993年)の5月であった。
自宅近くの某整形外科医院に出掛けたところ、初回の診察では栄養失調だったのが、
2回目に言ったときは、「奇妙な病気」と言うだけで、その治療方法は、
50cm四方の箱の中の流れるお湯に10分程度手を入れて見るだけのもので、
薬も筋肉増強剤をくれるのみであった。

「これでは治らない」と判断した私は、目先を変えて診てもらおうと某整骨院へ行ったところ、
「うちでは手に負えないから紹介状を書いてあげよう」と言われ、某総合病院を紹介された。
某総合病院へは、6月末と7月初旬の2回通ったが、
医者から「外来だけでは詳しく調べられないから検査入院をしてもらわないと。」と言われた。
私はこの時、既に、下田への単身赴任が内定していたため、
後日、仕事の繁閑を見計らって日程を決めることにした。



NEXT →HOME